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大川木工のあゆみ
大川家具の
始まり
大川家具の発祥
戦国時代の真っ只中、大川の祖・榎津久米之介が家臣の生活のためにつくらせた調度品や家具。釘などを使わず木と木を組み合わせたものは「指物」と呼ばれていました。その指物文化こそが、今の大川家具の歴史の始まりです。
もっと詳しく大川発展の礎
現在の大川の骨格を築いたと謂われる田中吉政は、領国経営の中で数々の土木工事を行っていました。その中で大事に育ててきたのが大川の船大工です。古い文書に、「船大工の世帯と家屋の税を免除する」記載も残っています。
もっと詳しく農業を変えた大川の木工
古くから九州有数の穀倉地帯であった筑紫平野。堀から水田へ水をくみあげる重労働を軽減するために考えられたのが水車の導入でした。そこで活躍したのも榎津の大工たち。水車づくりの産地として栄えました。
もっと詳しく指物から榎津箪笥へ
農業生産の木工が中心に栄えていた榎津の大工たちが、本格的に指物製品をつくり始めたのは19世紀に入った文化年間から天保年間にかけてのこと。その後、発展を遂げ明治10年頃に榎津箪笥へと進化します。
もっと詳しく家具の町大川の誕生
明治22年、町村合併で誕生した大川町。筑後川の改修で若津港には、外国航路の大型船も来航するようにー。町域の拡大と共に木工関係者が町全体の1/4を占めるようになり、全国的的に有名な家具の町・大川が誕生します。
もっと詳しく機械化のはじまり
若津弥生町にできた山口製材所は、大川に初の製材所。同時に、大川の木工業に初めて機械を導入した会社でもありました。電動と蒸気力で動く丸鋸によって、材料の生産が飛躍的にのび機械化が本格派しました。
もっと詳しく第一回木工祭
太平洋戦争敗戦後の日本で、復興のための家・家具の需要が高まります。大川の家具が「作っては売れる」木工ブームの到来です。国の重要木工業団地に指定された大川では、第一回木工祭も開催されました。
もっと詳しく大川家具の近代化
工芸デザイナー河内諒の指導によって昭和27年に生み出された引手なしタンスがきっかけで全国に知られるようになった大川家具。戦後のベビーブームでの需要などに応え家具生産はオートメーション化されていきます。
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[大川の歴史 その2]船大工の技術が
大川家具の誕生を導いた [大川の歴史 その3]
大川家具の歴史Q&A
大川家具の発祥
戦国時代に生まれた指物文化
大川家具の発祥は、戦国時代のまっただ中である1537年にさかのぼります。木工の祖・榎津久米之介が、家臣の生活のために指物を作らせたことが始まりと言われ、その中心地が榎津町の庄分であったことから、大川家具は昭和20年代まで、榎津指物または榎津モン(物)と呼ばれていました。
高度な船大工の技術
榎津町が木工の町として発展した理由としては、元々、この地には船大工が多く住んでおり、高度な木工技術が受け継がれていたことが挙げられます。また、日田で産出された木材が筑後川を通じて運ばれておリ、良質な木材が手に入リやすかったことも理由として考えられます。
[ 木工の祖榎津久米之介 ]
1485年、室町幕府十二代将軍、足利義晴の家臣、榎津遠江守の弟として生まれる。兄の戦死後、戦乱の世を儚んで出家し、京都から大川に移り1536年に願蓮寺を建立した。1582年10月、96歳で死去。
多くの船が行き交う船大工の町
榎津町には、なぜ多くの船大工が住んでいたのでしょう。その謎を解く鍵は有明海と筑後川にあります。当時の物を運ぶ手段で主流だったのは船でした。全国各地の物資が有明海から船で運ばれ、さらに筑後川をさかのぼっていったのです。しかし、筑後川の水深は浅く、海上交通用の大船が航行できるのは榎津一帯まででした。そこで、積み荷を小舟に積み替え、上流にまで運んだのです。そのため榎津は、有明海と筑後川を航行する船が集中する筑後一の港として栄え、また船の修理や、船造リをする船大工が必要となったのです。
資料によると、
● 1788(天明8)年、船大工67名、大工2名
● 1854(嘉永7)年、船大工101名、大工41名ほか
となっており、大工職の多くが船大工であったことがわかります。
大川指物とは…
釘などを使わずに、木と木を組み合わせて作った調度品や建具のことで、机やタンス、箱などが代表的です。日本古来より伝わる非常に高い技術であり、現在の大川家具にもその伝統が息づいています。
[ 日吉神社の船御輿 ]
日吉神社の船御輿は、1774年に庄分の船大工たちが造り、奉納したと伝えられるもので、長さ9.2m、幅2m、高さ3m、杉材を使用し漆塗り。昭和38年に福岡県有形民俗文化財に指定されています。釘を一本も使わず、組み立て式になっており、当時の大工技術の高さがうかがえます。昭和40年代までは、毎年5月に船曳き祭りが開催されていましたが、現在は飾り付けをした船神輿の展示、公開という形で祭りを続けています。
大川発展の礎
関ヶ原の火種が大川に
筑後川の河口という地理的条件から、大川市は戦国時代、大友宗麟、龍造寺隆信といった有力戦国大名の勢力争いの舞台となりました。その後、1587年に豊臣秀吉が九州を平定すると、立花宗茂の支配下となります。ところが、天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の合戦で、立花氏は西軍に加担したことから改易(領地没収)されることになります。そして筑後一国36万石を支配することになったのが、愛知県の岡崎城主であった田中吉政でした。
田中吉政の領国経営
田中吉政は積極的な領国経営の中で数々の土木工事を行いました。慶長の本土居の改修工事のほか開拓事業にも精力的で、筑後入国後に道海島、 潟島、大野島の開拓を命じ慶長の本土居完成後には堤防の外側に川口地区の紅粉屋 安本 小保の浜口を開拓しました。このことから現在の大川市の骨格は田中吉政によって完成されたと言えます。
さらに田中吉政が船大工を大事にしていたことがうかがえる資料もあります。榎津船大工の伝右衛門という人が所持していた文書がそれで、2名の船大工の所帯と家屋にかかる税を免除せよという内容です。またこれは1605年のもので「榎津船大工に関する」最も古い記録でもあります。
立花宗茂の復権と藩境の町
このように, 大川発展の礎を築いた田中家ですが、跡継ぎがいないことから取リつぶし(改易)となってしまいます。その後、立花宗茂が再び柳川藩主となり、有馬豊氏が久留米藩、さらに立花宗茂の甥・高橋種次が三池藩主となりました。この筑後3藩の成立で大川市は、大川校区の小保町、川口校区と大野島校区全域、田口校区の幡保が柳川藩、それ以外が久留米藩という全国的にも珍しい藩境の町となりました。
[ 柳川領小保町と
久留米領榎津町の御境石 ]
小保町と榎津町の間にある御境石は、ここが柳川藩と久留米藩の境界線だった名残です。馬を乗り換える馬継所も兼ねており、石の中央の穴に丸太を通し、馬をつないでいました。
農業を変えた大川の木工
九州有数の穀倉地帯、筑紫平野
大川市を含む筑後地方から佐賀市周辺に広がる筑紫平野は、古くから九州有数の穀倉地帯でした。江戸時代の農業の中心は稲作で、米を育てるには大量の水が必要になります。そのため筑紫平野には無数の堀がめぐらされているのですが、堀から水田へ水を入れるためには、打桶と呼ばれる桶でくみ上げるという大変な重労働が必要でした。
榎津の大工が筑後の農業を変えた
そこで考え出されたのが、当時大阪の淀川で使われていた水車でした。苦心の末完成した水車は、打桶の4倍もの量の水を水田に引き入れることができたそうです。そして、その水車を製造したのが榎津の大工たちでした。元々船大工として高度な木工技術を持っていた榎津の大工が作る水車は性能が良く、大正時代末期に電気灌水機が登場するまで、榎津は水車の産地として栄えました。
指物から榎津箪笥へ
輸入されていた木工製品
江戸時代中期の1751年、久留米藩7代藩主・有馬頼撞は若津港を開港。次いで1774年には柳川藩が住吉に港を開き、大川は筑後川河口の水運の町となります。そのころ造船や水車を始めとした農具の生産で木工の町として栄えていた榎津ですが、家具生産はまだ本格的な産業とはなっていませんでした。記録にも家具類は大阪方面から輸入していたと残されています。それは、江戸時代は身分によって持ち物が制限され、現代のように好きなものを自由に買うことができなかったからです。そのため、榎津の大工たちも家具類は注文が入れば作るといった程度で、主な仕事にはなっていなかったのでした。
指物の産地へ
では、榎津の大工たちが指物製品を作るようになったのはいつ頃からでしょうか。記録によると、19世紀に入った文化年間から天保年間にかけて、柳川藩内や佐賀藩で榎津指物が販売されていたと記されています。榎津指物の中興の祖といわれる田ノ上嘉作も、この時代に活躍しました。
[ 榎津指物中興の祖、田ノ上嘉作 ]
文化9年(1812年)生まれ。大阪で指物の修行をした優秀な細工人が久留米にいると聞き、すぐに弟子入りし、箱物(物を入れる箱の家具類)の製作を修得。榎津に戻り指物製作を始めました。これが榎津指物のはじまりと言われています。その後榎津指物は、息子儀助、さらにその息子小平次に受け継がれ、さらなる発展を遂げます。
明治維新と榎津町
明治4年廃藩置県により柳川、久留米、三池の三藩はそれぞれ県になり、さらに統合されて三潴県となりました。明治15年と17年の史料によると、この頃の榎津の木工業は販路が長崎・熊本まで拡大しており、また、家具類が広島や大阪から輸入され続けていることが分かります。そして、水車は性能が優れていたようで、第2回内国勧業博覧会で榎津町の福山長右衛門さん製作の水車が入賞しています。
榎津箪笥が生まれる
明治10年頃、大川独特のデザイン、機能を持った衣装タンスが生産され始めました。非常に大型で、材質は杉・桐・欅を使い、素木・透漆・黒塗リなどで仕上げられているのが特徴です。また、金具には鉄・真鍮などを使い、薄いタガネによる細かな透彫リを施すという手法も大川独特のものでした。当時 ひとつのタンスが完成するには、
❶ 木挽きによる製材 ❷ 金具製造 ❸ 塗装技術 ❹ 木工職
という4つの高度な技術を持った異なる職人が必要で、その4つの技術の粋を集めた作品が「榎津箪笥」だったのです。
家具の町、大川の誕生
家具産地となった大川町
明治22年、町村合併により大川町が誕生しました。オランダ人技術者、ヨハネス・デ・ケーレの指導により筑後川の改修が行われ、若津港は外国航路の大型船も来航する港として発展していきました。町域の拡大と共に木工関係者が町全体の1/4を占めるようになり、大川町は家具の町として全国的に知られるようになります。この頃になると大川町にも家具店が誕生し、家具の取引がさらに盛んになっていきました。
旧福博電車(西日本鉄道福
岡市内電車)も大川の木工
技術で製造へ
明治末から大正にかけて大川町には深川造船所という近代工場があり大川の指物の技術や船大工の技術を活用し木造蒸気船(900総トン)や鉄道車両が製造され、九州一円に若津港から出荷されました。
また、当時の三潴軌道には羽犬塚線と柳川線、大川鉄道には久留米線(大善寺)があり、若津港と鉄道の九州有数の物流の拠点でした。
工業講習所の設立で技術が向上
榎津指物が大川指物と呼び名が変わったのは、明治43年に大川指物同業組合が結成されてからです。この時に木工技術を高めるために工業講習所を設立し、桐箪笥の産地として有名な埼玉県の川越から指導者を迎えました。その努力が実を結び、タンスの家具、塗りが一段と向上し、花鳥風月の絵画風の螺鈿を取り入れるなどデザイン性も向上。大川指物は全盛期を迎えます。また、同じ時期、長崎本線の開通や三池港の開港により大量輸送が可能となり、販路も西九州一帯や関西方面へと拡大していきました。
[ 日田からの筏流し ]
家具や木工製品の材料となる木材は、主に日田から運ばれていました。運搬方法は筏流しと呼ばれるもので、大分の玖珠や熊本の小国から切り出した材木で筏を組み、筑後川を下っていったのです。筏流しが始まったのは江戸時代前期頃からと言われていますが、盛んになったのは明治以降で、夜明ダムの工事が始まる昭和27年まで続きました。
日田から運ばれてきた木材は、木工製品の材料としてだけでなく、材木商を通じて佐賀・柳川方面へ販売されました。大川と日田は、筑後川を通じて二人三脚で発展していったのです。日田の亀山公園にある日隈神社には、明治43年に造られた古い玉垣が残っていますが、110本の内46本は大川の木材業者が奉納したものです。日田から受けていた恩恵に対する感謝の印と言えるでしょう。
機械化のはじまり
製材所の設立
大川にできた最初の製材所は、若津弥生町の山口製材所です。そして、大川の木工業で初めて機械を取り入れたのも、この製材所でした。電動と蒸気力で動く丸鋸で、これにより、材料の生産力が飛躍的に上がったのは言うまでもありません。それ以前は、木挽と呼ばれる職人が、縦挽き用の大きなのこぎりを手で引いて、木材を割いていたのです。
大正10年には製材所は5つに増えましたが、それらは花宗川のそばにありました。それは、日田から筏流しで運ばれてくる木材を保管しておく貯木場として、花宗川の河川敷が利用できたからです。
家具作りは手作業が主流
家具を作る指物業で初めて機械を導入したのは、榎津町の松本由太郎という人でした。丸鋸、帯鋸、カッター、手押し鉋、自動角のみといった機械で、大正11年のことです。それらは現在、向島の村上機械に展示されています。
しかし、木工所での機械化はあまり広がらず、導入したのは当時わずか2~3の工場だけでした。なぜなら、当時の家具製造は1.木挽による製材、2.白木製造(塗装していない状態で家具を造る)、3.塗装仕上げ、4.金具製造という4つの手作業に分けられ、別々の職人たちがそれぞれの小規模な工場で行っていたからです。これを異種的手工業と言います。
なお、この時期には大正12年の関東大震災の復興需要により、東京風のタンスを造る機会が多くなりましたが、 そのため榎津独特のデザインの特徴がなくなり、産地の名称であった榎津の名がだんだん使用されなくなっていきました。
世界的な大不況
西九州から関西地方まで販路を広げた大川家具でしたが、昭和4年に始まる世界恐慌という世界的な大不況の影響を受け、生産高は約半分まで落ち込みました。当時、全国的には4人に1人が失業者と言われていましたが、手に職を持つ大川の木工職の人たちは農村に水車を作りにいったり、当時行われていた国鉄佐賀線のエ事に参加したりして、不況を乗り切りました。
戦争の影
佐賀線が開通し筑後大川駅ができると、大川に日本通運株式会社が進出し、家具生産もさらに盛んになっていきました。しかし、昭和12年に日中戦争、昭和16年に太平洋戦争が始まると様子は一変します。戦争目的のためあらゆる品が国に管理され、家具の材料である木材も自由に手に入らなくなり、若い職人たちは戦地へと出兵していきました。また、木工所も軍需品を製造する軍需工場になってしまったのでした。
第一回木工祭
重要木工集団地となる
昭和20年8月15日、日本の敗戦により太平洋戦争は終わりました。日本の主要都市は空襲で焼け野原となり壊滅状態でしたが、復興のためには家、そして家具が必要となります。そのような時代の中で大川の家具は需要が高まり、作っては売れるという木工ブームが到来しました。小規模な木工所が次々とでき、昭和24年になると国から重要木工集団地に指定され、第一回木工祭が大川小学校で開催されました。
機械化の本格化
昭和20年以前は、機械を導入した工場は数軒しかなかったと言われていますが、戦後の家具需要の増大に伴い、カッター、手押し鉋、自動鉋、角ノミといった木工機械を使い始める工場が増えていきました。この4つの機械は木工一式と呼ばれ、従来は完成までにタンスで2~3日、大型タンスともなると5日かかっていたのが、これらの機械を使うことで1~3日に短縮できるようになりました。このように機械作業が中心になると、家具職人の育て方にも変化が現れてきました。親方に弟子入りして5~6年の修行が必要だった徒弟制度がなくなり、家具工場で働きながら仕事を覚える見習い制度に移行していったのです。
大川家具の近代化
世界的な大不況
戦後復興の需要で急速に成長を続けた大川家具ですが、販売エリアは西日本に留まっていました。それが昭和30年頃、一気にその名を全国に知られるようになります。きっかけとなったのは、工芸デザイナー河内諒の指導によって昭和27年に生み出された引手なしタンスです。都会的で洗練されたデザインの引手なしタンスは、昭和30年、大阪の西日本物産展で最高賞を受賞し、さらに東京の東急百貨店で開催された第一回全国優良家具展でも高く評価されたのです。そして全国から注文が相次ぐようになり、大川家具は「大川調」という名で呼ばれるようになります。昭和38年には大川家具工業組合が設立。昭和35年頃から始まった高度経済成長に合わせ、東京、大阪を始めとした大都市に進出し、「家具の町大川」の名が広まっていきました。
工芸デザイナー 河内諒との出会い
戦後、大川家具が地場産業として発展するためには、昔ながらの箱物にとらわれない近代的な家具へ生まれ変わる必要がありました。その近代化に大きな功績を残した人物が、工芸デザイナーの河内諒です。当時、熊本産業試験場長をしていた河内氏は昭和26年より大川に定住し、デザイン・塗装など、技術の指導や助言を行い、デザインのシンプル化と機能性を追求しました。その結果生み出された「引き手なしタンス」は、都会的なセンス漂うデザインで、大川を代表する家具として爆発的に名声を高めることになりました。
大量生産を可能にした新技術
全国から注文が来るようになると、それに対応するために大量生産が必要になってきます。その大量生産を可能にしたのが、フラッシュ構造とダボ工法です。フラッシュ構造とは、角 材などの芯を格子に組み、その上に合板を貼り付けた板で、1本の材木を無駄なく使える上、軽いという特徴を持っています。また、ダボ工法とは、板と板を組み合わせるための技術で、両方に穴を開け、その中にダボと呼ばれる丸い棒を差し込み接着剤でくっつけます。これらの技術を取り入れることで、大川では早く安価な家具が作れるようになりました。
ベビーブーム世代の婚礼の急増
昭和35年から40年代にかけて、住宅新築の激増と戦後のベビーブーム世代の婚礼の急増で、家具は爆発的に売れました。今では、家具工場にはコンピュータを使った機械も使われるようになり、家具生産はオートメーション化されていきます。
このようにデザイン面でも技術面でも飛躍的な成長を遂げた大川家具は、ベビーブームによる結婚や新築ラッシュにより婚礼家具として人気が高まり、順調に生産を伸ばしていきます。昭和46年には全国的にも最大級の大川産業会館が落成し、昭和54年になると生産額1千億円を超える、日本一の家具の町になったのでした。